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玉川屋 トークショー「麻」

no.2

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いぜんは芭蕉布というのは沖縄の方では広く織られていました、

それが「喜如嘉」という場所の指定を受けて無形文化財になっているのかというのは、

一度、その流れが切れた時期もあるからなんです。 戦争です。

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それを平良敏子さんという方が復興するのですが、平良さんは戦争中に

沖縄女子挺身隊として倉敷の航空機の製造工場へ行きました。

その工場は元は倉敷紡績の工場であり、そこの大原総一郎社長が

沖縄玉砕、そして日本の敗戦後に平良さんを初めとする沖縄からの女性達に

「沖縄は戦争で焦土と化してしまったが、これから復興をして行かなければならない。

 そのためにはまず文化の復興が大切、沖縄の織りの物文化を守り育てて欲しい。」と話し

平良さんは倉敷で織物の知識を学び

沖縄へ戻った後は、山の自生の木などで細々と織られていた芭蕉布を復興してまいりました。

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沖縄の日本復帰の後は、審議委員をしていた大原氏の

「沖縄は国の政策のために、焦土となってしまい、やめたくて途絶えたわけではない」との話もあり、

途切れることなく技術を伝承しなければならいという点では特別な例として、

重要無形文化財の指定を受けたのです。

それ以降沖縄全体で芭蕉布を織ることは盛んになってはまいりましたが

国の重要無形文化財に指定されているのは平良さんの復興した喜如嘉の芭蕉布だけなのです。

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越後上布の話しに戻りますが

越後上布は古くは、奈良の正倉院に天平年間に越後国より献上されたとの記載があります。

1200年前の品ですのでさすがに痛んできてはおりますが、現存しております。

こういうと、いかにも越後だけが良い布を織っていた様に聞こえますが、

ここでまたちょっと脱線しますが、

実は日本に木綿が入ってくる以前はどこでも麻の布が織られていたんです。

そして木綿が日本に入ってきてから、麻の布は一気に駆逐されてしまいました。

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木綿に比べると麻は布にするのにとっても手間がかかるのです。

ですからどういう形で織られていたかというと、

お母さんやお婆さんが、家の人の着用のために

昼間の畑仕事が終わった夜にこつこつと作っていたのです。

今でもそうですがこの越後上布一日におれるのはこれくらいの物です。

一日かかってこれくらいですから、一反織るのがどれだけ大変か、

一反織るのに一冬はゆうにかかってしまいます。

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今では皆さん絹のお品をお召しですが、当時は絹というのは支配者の着る物であって、

ほとんどの庶民はお母さんや奥さんが、

自分たちが着るために作った麻の着物を着ていたんです。

今でこそ、沢山の布が生活の中にあふれていますけど

木綿が入ってくるまでは、布というのは大変貴重な物であったんです。

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そこへ、木綿が入ってきて麻を席巻してしまったのは

木綿というのは、暖かい、そして染めやすい、柔らかい、さらに分業がきくんです。

で、麻の生産が減る中で、質の良い麻の産地だけが残ったんです。

また、麻は仕事の後に自分たちの着る物をこつこつ作っていたと言いましたが、

木綿が流通してきて農作物と交換できるようになってくると

女性も布づくりから解放されて、農作業や他の仕事に力を注げるようになり、生産性が上がってきます。

木綿が入ってくる以前の日本の人口は飢饉とのかねあいである程度に制限されていましたが、

ところが木綿が入り食物生産性が上がってくることで経済が膨らみ、

徳川時代が長く安定して続いたというのも、そんなことにも大きな理由の一つがあるともいわれています。

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