私ども玉川屋の初代、石井善太郎は農家の長男であるにもかかわらず商いで身を立てることを志し、
弟二人に田畑を譲り北多摩郡石井戸村(現在の世田谷区大蔵にあたり今でも出身の石井家が残っております)を後にし
日本橋へと出て参りました。
まず善太郎は、東京の金満という店で商売の修行を積みました。
しかし明治十二年、四国松山から発生し全国で死者十二万人を超す猛威をふるったコレラにより
店主も亡くなり店も閉める事となったため
それまでの商いでいろいろな物を扱った経験の中から呉服を選び自分の商いを始めました。
以来商売に励み、明治十八年日本橋芳町において玉川屋呉服店を創業致しました。
この年は、伊藤博文を初代の総理大臣に据えて日本の内閣制度がスタートした年でもありました。
玉川屋は、店の規模こそ大きくないにしろ堅実な経営を続け、
明治四十三年には後継ぎ息子がまだ幼かったため同業で長年奉公した石井忠平を養子として迎えました。
忠平は大正十一年に初代が亡くなるとともに善太郎を襲名し店を継承致しました。
これから商いを大きく伸ばそうとした翌大正十二年九月二日、大震災が関東を襲ったのです。
大地震の被災の様子は後に伝え聞く様に大変なものでした。
店の周囲からもあちらこちらから火の手が上がった為に、様子も全く分からないまま家族兄弟、店の者と共に
積めるだけの家財を大八車に乗せとりあえず火の出ていない方へと逃げ出しました。
どこへ逃げれば安全かも分からないまま大きい道沿いに(今の第一京浜の様です)逃げて参りました。
逃げ疲れて陽も落ちてきた頃辿り着いたのが芝の泉岳寺の辺りでした。そこで酒屋さんの軒下を借りて一晩過ごしたそうです。
翌日善太郎の出身の大蔵の方へ逃げようとする途中で、親戚があったため立ち寄ったのが今の渋谷道玄坂でした。
この辺は当時まだあまり開けてはおりませんでしたが震災の被害もほとんど無かったので
腰を落ち着け一から商売を再開する事にしたそうです。
震災の復興の需要もあり商いも順調に伸びて行きました。
大正から元号も変わり昭和となりました。善太郎の長男の欣次も成人したので昭和五年、
忠平は弟に家督を譲り欣次が三代目となりました。(これが今の玉川屋の会長であります)
それから戦争をはさみ大変な時代も有りましたが何とか乗り越えて、
昭和三十七年現在の場所に三階建ての店舗ビルを構えました。
(当時は渋谷もまだ今のようにビルが多くなかった為屋上から渋谷の駅までが見えたそうです。)
その後、日本経済の発展とともに玉川屋も歩み、昭和六十年に創業百周年を迎えるとともに
四代目を現社長の石井善彦が継ぎ又十階建ての現在の店舗ビルが完成致しました。
そして更に十年がたち、今年創業百十周年を迎える事が出来ました。
(原稿執筆時は平成7年、おかげさまで本年で130年目を迎えます)
現在玉川屋は、親子三代現役で商いをさせて頂いております。
呉服店多く有る中でも非常に稀なことと思います。今までお客様に暖かく支えられ、
育てられてここまで来ることが出来ました私達でございます。
これからもお着物を通して皆様方のお気持ちを豊かにする事のお手伝いが出来ればと思っております。
今後共どうぞ宜しくお願い致します。